「ありがとう十四山中学校」 令和5年度卒業 徳村 心那

「ありがとう十四山中学校」

 

 78年。代々培ってきた私たちそれぞれの思い出が詰まった、この十四山中学校が今年で幕を閉じます。ここで過ごした中学三年間は、私たちにとってかけがえのない日々ばかりでした。                                    

 汗をかき、仲間と共に切磋琢磨してきた部活動。毎日少しずつ自分の成長を感じながら、暑い中、熱い思いで練習に励んできました。また、試合で勝利したときの達成感と仲間と結んだ強い友情は私たちの青春そのものです。                  

 「素晴らしいものにしよう」と力を合わせて励んだ学校祭。学年を超えた交流とともに生徒全体の一体感を味わうことが出来ました。毎年、一人一人の学校祭にかける情熱がさらに重なり合い、最高の学校祭を生徒全員で作り上げることができました。                       

 当たり前のように毎日笑顔で元気よく挨拶をし、授業を受け、美味しい給食を食べた3年間。この日常には、私たちの沢山の思い出が溢れています。             

 今年で母校の形が無くなってしまっても、この十四山中学校で過ごした3年間の思い出は、いつまでも私たちの心の中に残り続けます。ここで過ごし、培ってきた経験と思い出を胸に、これからも私たちは成長し続けます。どうか今後の私たちの活躍を見ていてください。十四山の魂、永遠なれ。    

 78年間、本当にありがとうございました。

 

徳村 心那

「十中閉校に寄せて」 平成22年度卒業 加藤 穂高

「十中閉校に寄せて」 

 

 閉校の話を聞いた時、率直な感想は「ついに決まったか」でした。私はこれまで自治体関連の仕事をしてきたため、学校の閉校自体はよくある話と認識していました。しかし、いざ母校が閉校する状況になると、やはり寂しさを感じざるを得ません。

 平成20年に私が入学した当時も同級生は50名足らずで西部と東部の出身者を混ぜて、なんとか2クラスに分けるという状況でした。入学当初、異なる小学校出身の同級生がいる状況に若干の不安を覚えていましたが、すぐに西部も東部も関係なく遊び、学んでいました。これも規模の小さい十中ゆえの良さだったのでしょう。

 とはいえ、人との近さは時に厄介なものになることもあります。私は十中卒業後、同窓生がいない高校に進学し、さらにその後は愛知を離れました。当時は、近さを窮屈さと捉えていたのかもしれません。ただ、それは悪い選択ではありませんでした。環境を変えることは、新たな経験や気づきを与えます。来春から新しい環境に変わる在校生の皆さんの中には不安な気持ちもあるかもしれません。ただ、それを恐れ過ぎず、異なる環境を楽しんで欲しいと願っています。

 同時に、近しい間柄もそれはそれで大切にしてほしいとも思います。私は郷里を離れ10年以上が経ちましたが、今でも同級生と会う度に人との近さも悪くないなと思わせてくれます。閉校後も、多くの人にとって十中がそのような心の拠り所として、あり続いてほしいと思います。

 

加藤 穂高

「⼗四⼭中学校の思い出」 平成4年度卒業  ⼤⾕ 悠介

「⼗四⼭中学校の思い出」 

 

 ⼗四⼭中学校が閉校になる。時代の流れとはいえ、さみしい気持ちになります。

 ⼗四⼭村で育った私達にとっては当たり前に通い学んだ学校。多感な時期を共に過ごした友⼈や先⽣⽅とは、卒業後も会えば思い出を語り合える関係を築けた⼗四⼭中学校。多くの⼗中出⾝者にとって特別な場所だと思います。

 時間と共に忘れてしまった思い出もあれば、忘れられないのは部活動です。野球部で過ごした時間は鮮明に覚えている事も多く、約30年経った今でも思い出し笑いしてしまいます。キツい練習、厳しい上下関係、顧問の先⽣のその⽇の機嫌など。今でこそ笑えますが、当時は「⾊々と空気読まないと⽣きていけない!」くらいヒリヒリした時間でした。当時⼀⽣懸命に打ち込める環境があったからこそ、今でも笑える思い出が出来たこと本当に感謝しています。

 卒業後10数年、顧問の先⽣の声掛けもあり、卒業⽣でナイターの試合をすることになりました。若くして亡くなられた野球部出⾝の諸先輩⽅を偲んで集まったOB戦でしたが、それから⼗中OBナイター戦は毎年の夏の⾵物詩となり、親⼦で参加したり、お互い⾝体の衰えを笑いあったり出来る場所になりました。皆が汗を流し泣いたグラウンドが⼤⼈になったら笑って集まれる場所 ⼗中グラウンド。

 「球友は永遠に」
 ⼗中の近くを通る度、バックネット裏に建つ⽯碑に刻まれたこの⾔葉を思い出します。卒業してからも沢⼭の⼈たちが思いを馳せる素敵な場所。⻑年に渡りお疲れ様でした。
 ありがとう⼗四⼭中学校!

⼤⾕ 悠介

「十四山中学校校歌」 昭和60年度卒業  串田 崇

「十四山中学校校歌」

 

 昭和58年4月、十四山中学校に入学した当初、多くの先生から「校歌を作詞した串田益夫は串田君と関係があるのか?」と聞かれ「はい、父です!」と答え、ちょっと鼻が高くなったのを覚えている。時代はめぐり令和元年、自分の息子(益夫の孫)も全く同じ経験をしたからおもしろいものだ。

 父益夫が昭和29年に入学した際には校歌がなかった。校歌を作るため生徒から歌詞を公募し選ばれたそうだ。もちろん「♬千載洋々、木曽の流れに・・・」の歌いだし部分や難しい言葉は、中学生が作ることのできる言葉ではないので、父が作った文章を専門家が校歌らしい歌詞に変えてくれたそうだ。

 振り返ってみると多くの学校行事の節目には必ず校歌がそばにあり、その場の空気を律する力があった。丸坊主にしたばかりの同級生の顔を見ながら歌詞が分からず「口パク」で笑いながら歌った入学式の校歌、3年間の思い出と新たな門出に不安を抱えながら涙で歌った卒業式の校歌。様々な思い出と記憶がよみがえる。

 十四山中学校の伝統と校風とともに毎年、バトンのように在校生から新入生に受け継がれてきた校歌。閉校しても卒業生の中学時代の記憶とともにメロディーと歌詞がBGMで流れ続ける。♬母校の名誉に 生きぬかん 十中 十中 十四山中学校

 記憶とともに母校の校歌を大切にしていきたい。

 

串田 崇

「閉校に寄せて」 昭和53年度卒業 前田 健治

「閉校に寄せて」

 

 私が十四山中に在学したのは、昭和51年度から53年度です。

 入学したころは木造の校舎でした。2年生の時に現在の鉄筋校舎になったことを記憶しています。新しい校舎にわくわくしたものでした。

 また、1年生の時は、給食はなくお昼は弁当持参でした。2年生か3年生の時に、おかずだけ業者弁当が届く給食が始まった記憶があります。正直に言うと、あまりおいしくはなかったように記憶しています。今のおいしい給食はうらやましいですね。

 しかしながら、どの時代の生徒とも同じように、私にとっての十四山中は、学習や部活動など、多くの時間を同級、先輩、後輩、先生方と過ごし、思い出のいっぱい詰まった学校です。その母校がなくなってしまうのは寂しい限りです。

 と同時に、弥富中学校に編入され、“しん”弥富中学校として新たなスタートを切ること、大きな期待をもって見守っています。次代を担う若者たち(弥富市の宝たち、十四山地区の宝たち)が、新たな学校で新たな仲間とともに切磋琢磨し、自身はもちろんのこと、郷土を愛し輝かせてくれることと思います。

 十四山の名前はどんどん消えていきます(ちなみに私は、当然十四山村生まれ。東部小、十中、そして、海南高校卒です。母校がなくなります)。十四山中はなくなりますが、十四山中で過ごした多くの卒業生が築いた歴史は残ります。母校十四山中は、私たちの心の中にあり続けます。

 

前田 健治

「TY君との出会い」 昭和38年度卒業 飯田 數義

「TY君との出会い」

 

 私は、昭和38年度卒業生で今年、後期高齢者の76歳です。今から約64年前に、TY君は西部小学校出身、私は東部小学校出身で、十四山中学校で初めて出会いました。同じクラスで、部活も野球部で同じ。彼とは卒業後も交流が続き、彼は時々ふらっと遊びにやってきました。二十歳位の時、私は珠算塾を経営していて、彼に何気なく「子どもたちに卓球台があるといいな」と話したところ、彼はすぐに「今から作ろう。材木屋へ行って材料を探そうか」と言い、二人で材木屋へ行き、木材を購入し、その日のうちに、組み立て式の卓球台を制作したのでした。このように、彼は躊躇なく「今できることは、今からやってみよう」という考え方で、行動的でした。いつも慎重で、あまり行動的でなかった私は、その後の人生の営みの中で、かなりの影響を受けました。例えば27歳で小学校教員免許を取得し、母校の東部小学校に勤務することができたことや、退職後も、住居地である蟹江町の嘱託員、子ども会会長や社会福祉協議会会長等々、後期高齢者の現在もボランティア活動に励み、充実した日々を過ごすことができていることは、彼の考え方や行動力の影響なのだと心から感謝しています。

 本年度末に十四山中学校が閉校することになりましたが、私にとっては、永遠に心の中で、不滅の学校として残ると信じています。

 

飯田 數義

「閉校に寄せて」 昭和34年度卒業 林 美智江

「閉校に寄せて」

 

 中学生になって一番の変化は自転車通学になったことです。小学生時代は通学距離が長く、体も小さく体力がなかった私は毎日の通学が大変で帰宅するやいなや床に入り体を休めていました。また体育の授業では見学ばかりでした。

 自転車通学になり、体力もつき欠席が少なくなったことはどんなに嬉しかったことでしょう。また教科担任制になり、先生方の個性あふれる授業に興味深く取り組めました。体育のテストでは実技面では点数が取れないので保健教科で挽回したく保健を懸命に勉強しました。

 1年生の時に部活動を見学する機会がありました。3年生が投げた強いボールが男の子顔面に当たり眼鏡が割れてしまいました。そのことがずっと脳裏にあり、今、思うとけがの予防、健康管理に携わる職業に繋がっていったのかもしれません。

 またこんな思い出もあります。3年生の9月(1959年)の土曜日、担任の先生が今まで見たことのない表情と声で、高校受験について叱咤されました。反省しながら下校した夜、猫が座敷や居間を1時間ほど休憩しないで走り回っていました。その落ち着きのない様子を見て父が「堤防が切れるかもしれないから大切な物を2階に上げろ」と言いました。急いで教科書、アルバムなど必要な物はほとんど2階に上げました。戸間へ入ってきた、ひたひたという水の音を聞いたと思うとあっという間に天井近くまで浸水してしまいました。猫は本能で予知したのでしょう。あの伊勢湾台風です。その後私は縁故疎開をしましたがクラスのお友達は集団疎開をされ、3ヶ月以上会えなくなりました。

 中学校は令和6年度末で閉校になります。「十中 十中 十四山中学校」と成人式で合唱したのが最終になりました。多くの生徒を送り出していただき感謝です。

 

林 美智江

「十四山中学校は永遠に」 旧十四山中学校職員  奥山 巧

「十四山中学校は永遠に」

 

 私が十四山中学校に赴任したのは昭和五十六年四月だった。赴任のあいさつに吉川博先生のお宅に伺った。先生は「ああ君が大阪から来た奥山君か、十中のためにがんばってくれよ」と言われたので『親戚も頼る者もいない私を名前まで知ってくださっていたのか』と思ったら、俄然やる気に火が付いた。そしてこの時に、名前を憶えて呼ぶという行為は、呼ばれた本人にとって、いかに強く心に響くかを知ったのである。十中で実際に授業や部活動に取り組むと消極的な生徒が多く、各種競技大会では委縮して力を出せなかった。また学習習慣も身に付いていない生徒が多かった。これはダメだ。中学生の時から学力体力精神力を鍛えあげ、地力を備えた人材を育てなければと心に誓った。すると連動して岩田校長が「たくましい人間を育てよ」と号令をかけ、職員一丸となって燃えに燃えて学習に部活動等に取り組んだ。やがて学力は海部地区最上位、部活動でも上位進出し、野球部は全国大会まで進むことができた。その間多くの優秀な人材、地域に貢献できる人材を輩出することができた。私は教諭、校長、市教育委員・教育長として計二十四年に渡り当校とかかわった。昭和から現在まで常に在校生、卒業生、教職員の幸福を願いつつ閉校に至ることは、心淋しいが感謝の気持ちでいっぱいである。十中で育った寛容で粘り強い精神は後世に伝わり、十四山中学校は永遠である。

 

奥山 巧

「十四山中学校の5年間」 旧十四山中学校職員 溝口 紘

「十四山中学校の5年間」  

   

 閉校イベントが開催され、当時のPTA会長さんらと一緒に参加しました。東の正門から玄関まで運動場を左に眺めながら僅か30m位歩く間、数々の思い出が脳裏をかすめました。校長室にある蝶の羽根を描いた大きな絵の額も目に浮かびました。懐かしい人たちと話し合う事もでき思い出の1ページでした。

 生徒たちの活動で強く心に焼きついている事が幾つかあります。一つは、学校祭の合唱コンクールでの歌声は「素晴らしい」の一語に尽きます。体育祭ではブロック毎の準備から本番での演技、中でもフィナーレは見事で、校長先生の生徒への力強いメッセージは強く心に響いたと思います。そして、卒業式では「サライ」を全校で歌った記憶があります。画期的な事であり、実に感動的な卒業式を思い出します。野球部始め部活動も盛んで各種大会で輝かしい成績を残し、充実した学校生活を送っている生徒の姿も忘れられません。部活動が生徒の人間形成にとって大きな意義がある事を改めて感じました。

 生徒と話す機会が少なくなり多少寂しくなりましたが、英語の授業を通して接することが出来たのがこの上ない喜びでした。                        

 先生たちも明るく、その雰囲気は生徒たちにも通じ、学校全体が生き生きとしており、「自主自立」が生きた校訓として根付いていたのではないでしょうか。

 地域の人たちは学校に非常に協力的で、特にPTAの活動は熱心で、歴代の会長さん含め、執行部の方には格別お世話になりました。教育活動をスムースに進める事ができたのもPTAの力によるところが大でありました。                   十中での5年間の貴重な経験が、後の教員生活や自身の人生にとって大きなプラスにもなっています。

 

溝口 紘

「十四山中学校との『縁』」 旧十四山中学校職員 木下 浩

「十四山中学校との『縁』」 

     

 私は二度、十四山中学校に赴任しました。一回目は初めての中学校勤務で、理科だけでなく社会科や体育科を担当した年もあり、教材研究で忙しい日々でした。大型台風が直撃した夜の当直、暴風で美術室の窓ガラスが割れ、段ボールを使って雨風を防いだことが印象に残っています。また、ソフトボール部の顧問で、大橋功治先生と共に海部地区大会で連続優勝を果たしたことや、『選択理科』の授業で、保健室の前から運動場に向かってペットボトルロケットを飛ばしたり、リンゴあめを作ったりと楽しんだことを覚えています。

 二度目の赴任でも、優しい職員や保護者に恵まれ幸せでした。杉浦亨校長先生を中心に防災学習を進め、炊き出し・避難所設置・消防訓練などをPTAや地域団体と協働し、地域と共にある学校でした。時折、教え子が親になって、下校指導中に声をかけてくれました。本当に幸せを感じました。   

 さらに、十四山中学校の校歌を作曲された鬼頭孝夫先生も、私の初任者指導の先生で、一緒に歌ったこともあります。これもまた『縁』を感じます。   

 閉校となっても、ここでの思い出は心に残り続けます。この十四山中学校で過ごした実りある時間に感謝します。「ありがとう、十四山中学校」

 

木下 浩